眠い人のブログ

思ったこと・感じたこと、体験したことをつらつらと。

族称、個称の話

どうも、大学の授業が始まって今の所対面だから戦慄してる眠い人です。

大学の授業ってなんであんなにも受ける気にならないんでしょうね。
永遠の謎です。

さて、今回は「族称」「個称」のお話です。

今までの記事の中で一番パッとしないタイトルじゃないかなと思います。それに、そもそも「個称」なんて言葉ないし、こいつ何言ってんだって感じですよね。でもこれ、すごい大事なことじゃないかなって思ったんです。主に、日本と海外の文化をよく表してるなと気づきました。

まずこの事を考えるきっかけになったのが、母の言葉でした。

母曰く「私は、元々母と呼ばれる気はなかった。たとえ子が出来ても名前で呼ばせるつもりだった。私が母であることには間違いないがそれは立場上の名義であり、私の呼び名であるべきではない。私は私である。私を呼ぶ名前はすでにある。」だそうです。

まあ、うちのパワフルな母はまたいつの日か紹介させていただくとして、この言葉に私は最初全く同意が出来ませんでした。「母は母じゃん。」と。母もその件について、今更呼び方を変えてほしいという主張ではなく、「実はね」くらいの話だったので、その時はあまり深いところまで話さずに終わりました。

ただ、その後時が流れ、私自身いろいろなコミュニティと接することが増えた時に、上の名前で呼ばれるコミュニティと下の名前で呼ばれるコミュニティがあることに気づきました。もちろんその場にいる人との親密度や居心地、内容にもよるんですが、私は下の名前で呼ばれる方が嬉しいな、と気づきました。そしてなぜ名字で呼ばれることに違和感を覚えるのか考えた結果「名字は族称であって、私個人の呼称(個称)は下の名前であるべきだから」という、なんとも母親譲りの結論に至ったわけです。

名字は元来その人がどこの出の人かを表す名前であったはずで、所謂下の名前が私が呼ばれるべき名称ではないかな、と言う結論にたどり着いた私は、名字以外で族称で呼ばれることってあるのか?と疑問に思いました。そして、高校の頃よく所属の部活全体で指示を受けているシーンを思い浮かべることが出来ました。「サッカー部!」と先生が呼びかけるシーンは皆も想像に容易いのではないでしょうか。

しかし、これ、僕の住んでいたアメリカでは、殆どなかったように思います。そもそも部活に入るという文化がかなり日本的なものであるということを除いても、誰かを呼ぶ時にその人が所属している団体や族の名称で呼ぶことはあまりなく、むしろそれを使うときには大小ありますが差別的な印象を受けやすいように感じます。そしてもちろん、海外の人達は下の名前で呼ぶことがほとんどです。

つまり、名字で呼ぶことと名前で呼ぶこと、族称で呼ぶことと個称で呼ぶことに、文化の違いがありありと浮かび上がっているのではないかという結論に至ったわけです。

日本人は協調性をとても大事にする傾向があります。日本の学校教育も、仲間内での絆や繋がりというものを大切にすることを常に学べるよう組み立てられています。それが、族称呼びにあらわれているのではないか、と私は思いました。

この結論があっているのか、そもそも協調性を大事にする考えと名字で呼ぶこと、これのどちらが先に定着したかも全く分かっていません。ただ、文化の違いや、個人の受け取り方の違いって呼び方一つにも現れるって僕はすごく面白いなと思ったし、大事な視点かなと思ったので共有させていただきました。

長い割にふわっとした終わり方ですみません。他にもなにか違う切り口で文化の違いを見つけられた方いましたら是非、コメントしてください。

では、また。