ベンサムという名のハンサム哲学者
ベンサムってかっけえ。
なんのことやらという、見出しではじまりました眠い人です。1年半ぶりの投稿、ここまで来ると逆に死ぬまで続けられそう。
話は逸れましたが、皆さんベンサムって知ってますか?
僕も高校生の頃にちょろーっと勉強した程度で大した知識はないんですけど、一つ大きな考え方を残していてそれがずーっと頭に残ってるんですよね。それが、
「最大多数の最大幸福」
というものです。「功利主義」とも言うらしいんですが、なんぞ?って感じですよね。
めちゃくちゃ簡単に言うと、
「より大勢の人がより幸せな方が、より良くね?」
っていう考え方です。
「いや、当たり前やないかい」ってツッコんだ皆さん、そう!!当たり前なんですよ。
けど、少し立ち止まって考えてみてください。
これってつまり、自分一人だけが100%幸せでその他が50%の幸せより、みんなが75%幸せのほうがいいよねっていう考え方なんですよ。
こう言われるとドキッとしません?
自分一人の利益のために他の人たちが圧倒的に不利益を被ることになる、っていう題材のドラマ、いくらでもありますよね?その葛藤を描いて、それを視聴者が見て、共感を得ていません?自分だったら実際どうするだろうな、って考えたことありません?
人間誰しも自己中であってそれは仕方ない事で、それでいいと、僕は思ってるんです。けどベンサムが残した「最大多数の最大幸福」という考え方は「当たり前では?」と思えるほど、ふっつーーの事を言ってるんですよね。それを公言できるって、発表できるって、
めっっっっちゃカッコよくないですか?
俺はベンサムに惚れましたね。
まあ、何が言いたいかと言いますと、世界中の皆が、この当たり前の事を当たり前に思えると世界って一夜にして幸せな場所になると思うんです。
何かを判断する際、是非考えてみてください。自分の幸せが20%減って、その他大勢の幸せを20%上げられるなら、たまにはそっちを選んでもいいんじゃないですか??最初は、たまに、でいいと思います。
では、おやすみなさい。
族称、個称の話
どうも、大学の授業が始まって今の所対面だから戦慄してる眠い人です。
大学の授業ってなんであんなにも受ける気にならないんでしょうね。
永遠の謎です。
さて、今回は「族称」と「個称」のお話です。
今までの記事の中で一番パッとしないタイトルじゃないかなと思います。それに、そもそも「個称」なんて言葉ないし、こいつ何言ってんだって感じですよね。でもこれ、すごい大事なことじゃないかなって思ったんです。主に、日本と海外の文化をよく表してるなと気づきました。
まずこの事を考えるきっかけになったのが、母の言葉でした。
母曰く「私は、元々母と呼ばれる気はなかった。たとえ子が出来ても名前で呼ばせるつもりだった。私が母であることには間違いないがそれは立場上の名義であり、私の呼び名であるべきではない。私は私である。私を呼ぶ名前はすでにある。」だそうです。
まあ、うちのパワフルな母はまたいつの日か紹介させていただくとして、この言葉に私は最初全く同意が出来ませんでした。「母は母じゃん。」と。母もその件について、今更呼び方を変えてほしいという主張ではなく、「実はね」くらいの話だったので、その時はあまり深いところまで話さずに終わりました。
ただ、その後時が流れ、私自身いろいろなコミュニティと接することが増えた時に、上の名前で呼ばれるコミュニティと下の名前で呼ばれるコミュニティがあることに気づきました。もちろんその場にいる人との親密度や居心地、内容にもよるんですが、私は下の名前で呼ばれる方が嬉しいな、と気づきました。そしてなぜ名字で呼ばれることに違和感を覚えるのか考えた結果「名字は族称であって、私個人の呼称(個称)は下の名前であるべきだから」という、なんとも母親譲りの結論に至ったわけです。
名字は元来その人がどこの出の人かを表す名前であったはずで、所謂下の名前が私が呼ばれるべき名称ではないかな、と言う結論にたどり着いた私は、名字以外で族称で呼ばれることってあるのか?と疑問に思いました。そして、高校の頃よく所属の部活全体で指示を受けているシーンを思い浮かべることが出来ました。「サッカー部!」と先生が呼びかけるシーンは皆も想像に容易いのではないでしょうか。
しかし、これ、僕の住んでいたアメリカでは、殆どなかったように思います。そもそも部活に入るという文化がかなり日本的なものであるということを除いても、誰かを呼ぶ時にその人が所属している団体や族の名称で呼ぶことはあまりなく、むしろそれを使うときには大小ありますが差別的な印象を受けやすいように感じます。そしてもちろん、海外の人達は下の名前で呼ぶことがほとんどです。
つまり、名字で呼ぶことと名前で呼ぶこと、族称で呼ぶことと個称で呼ぶことに、文化の違いがありありと浮かび上がっているのではないかという結論に至ったわけです。
日本人は協調性をとても大事にする傾向があります。日本の学校教育も、仲間内での絆や繋がりというものを大切にすることを常に学べるよう組み立てられています。それが、族称呼びにあらわれているのではないか、と私は思いました。
この結論があっているのか、そもそも協調性を大事にする考えと名字で呼ぶこと、これのどちらが先に定着したかも全く分かっていません。ただ、文化の違いや、個人の受け取り方の違いって呼び方一つにも現れるって僕はすごく面白いなと思ったし、大事な視点かなと思ったので共有させていただきました。
長い割にふわっとした終わり方ですみません。他にもなにか違う切り口で文化の違いを見つけられた方いましたら是非、コメントしてください。
では、また。
「人間っていいな」についての考察。
童謡「人間っていいな」について考察した話。
今日は変な話を真剣にしたいと思います、眠い人です。
初めに言っておきたいのですが、これはあくまで、私個人のくだらない考察でしかない上に、もしどこかで同じような考察が載っていたとしてもそれは同じ結論にたどり着いた別人の解釈です。正解がもしあるとしても、また一つ面白い解釈だな、程度に読んでいただけると幸いです。
さて、本題は「くまの子見ていたかくれんぼ、お尻を出した子一等賞。」という曲の一番にあたる歌詞についての考察です。
皆さんも、小さい頃に歌って、疑問を感じたことがあるのではないでしょうか。
一体なぜ、くまはかくれんぼをみているのか。一体誰が、お尻を出しているのか。そして、一体全体どうして、その子が一等賞を取っているのか。
まず、この歌の一番は、なんども繰り返される「いいな」という歌詞をくまの視点から歌わせることで、小さい子供に「人間として生まれたこと、生きていけることは幸福なんだよ」ということを教えこんでいます。家に帰れば温かいご飯が自分のことを待ってくれている、という子供の時には疑いようもない事実は、人間としてかつ恵まれた家庭で生まれた子の特権であり、くまからしたら普通のことではないと言うことなのです。
野生のくまは、いつ人間に殺されるか日々怯えているのでしょう。人間以外にも、様々な天敵や疫病にいつ襲われるか分かりません。そんな熊が、人間の日常をふと垣間見たのです。人の子がくまの縄張りに入ったのか、くまがご飯を求めて人里におりてきたのかはわかりません。しかし、くまがそこで見た光景は、自分の暮らしとは想像もつかないくらい「平和」に包まれたものでした。かくれんぼで遊ぶ人の子を、かくれんぼで遊ぶことさえないくまが見ている、というのがこの歌のキモなのです。
つまり、くまは人の子が何をしているのかは検討もつきません。和気あいあいと集まり、一人が目をつぶったと思ったら、他の子どもたちは方方に散り、あっという間にいなくなってしまいました。その子が目を開け大声を出したと思ったら、あちこちからそれに呼応するような声が聞こえてきます。聞こえてきた声を確認し、人の子が歩き出します。そして、次の瞬間、なんとお尻が出ているではないですか!!まさに頭隠して知り隠さずの子がいるのです。名前を呼ばれたその子供はひょっこりと頭を出し、あちゃ〜と嬉しそうに笑っています。つまり、「一番」に見つかってしまったことに対して笑っているのです。
くまはその光景を見て、「なるほど、早くに見つかれば良い遊びなんだ。」と理解したのではないでしょうか。言うなれば「かくれないんぼ」というゲームだと認識したのでしょう。前述した通り、くまはいつも外敵に恐れ、野生の中でいつも身を隠しています。人間社会が発達してしまった今、本気で羽を伸ばしているくまがどれほどいるのでしょうか。そう、くまはその生涯をかけて「見つかってはいけないかくれんぼ」をしているのです。そのかくれんぼの最中、偶然見かけた人の子らによる「かくれないんぼ」。どれほど、輝いて見えたことでしょうか。誰かに見つかり、それが喜ばしいことのように笑い合える。見つかっても次があるだけでなく、早く見つかれば早く見つかるほどに盛り上がるその状況を見て、どれほど羨ましく感じたことでしょうか。
「人間っていいな」は子供たちに対し、動物の目と口を通して人間でいることの素晴らしさを説く曲です。しかし、それ以上に動物たちの悲哀を説いている歌ではないのでしょうか。人間がいかに幸せに生きているのか、その対照となる動物としての生活。そこにスポットライトを当てることで、この歌の真に伝えたいことが理解できたのではないでしょうか。
くまからしたら、そりゃでんぐりがえしもしたくなりますよね。
では、また。
変わりたいのに変われない人へ
待っていてくれた人も、待ってない人も、お久しぶりです、眠い人です。
今日も絶賛眠い僕は全く変わらないですが、みなさんはどうですか。
この一年で変わったことありますか。それとも変わりたくて、変われていませんか。
変わるのってとっても難しくないですか?そして同時に変わらないのも難しいと思うんです。どちらも難しいけど、確実に起こる。表裏一体だからこそ、悩む人も多いと思うんです。じゃあ、なにが起これば変わるのか、何をすれば変わらないのか。そこを理解すれば悩まなくてすむんじゃないかと思いました。
人間関係が変われば環境が変わる。環境が変われば習慣が変わる。
そして習慣が変われば、人が変わる。
いきなり自己啓発本みたいなことを言って拒否反応を示した人もいると思いますが、これって事実だよな〜って思ったので共有しようかなと思いました。
もちろん他にも人が変わるための要因ってあるだろうし、人によって順番も様々だとは思うけど、僕はこれが一番当てはまるかなって思ってます。
そもそも、人生って「人として生きること」じゃなくて、「人と生きること」なんじゃないかなって僕思うんです。何をするにも他人との関わりって、どうしようもなく避けられないものなんです。言わずもがな友情や恋愛は他の人との共同作業だし、どんな仕事も他の人ととの連鎖反応で成り立っている。自己分析をするにしても、他者との比較がなければ始まらない。何が言いたいかって言うと、人は人と関わることで「人」でいられるんです。それはつまり、環境を形作っているのも人でしか無いわけです。
そして関わる人が変われば、環境って自ずと変化していきます。進学や転校、就職や転職などで見た目の環境は変わります。けど、それでも関わる人や住む場所を変えてないときって自分にとって環境の変化をありありと感じられますか?例えば、高校に入学したての頃地元のやつらと一ヶ月ぶりに会ったとき「何だ変わんねえじゃん」言ったことありません?それって、もちろん相手に言った言葉でもあるかと思いますが、自分でも思いませんでした?だけど、二年生になって高校での友達が出来た頃、ふと思い出すと地元のあの道あの公園、もう行かなくなったな、なんて思いませんでした?高校に入学したことで環境が変わったかも知れません。けど、実際に自分の日々の行動が変わるのって、関わる人が変わったときなんです。
人が変わって、環境が変わる。そしたら習慣も変わるのはもう言うまでもありません。中学の頃は、早寝早起きをして朝練に行ってたのが、少し遠くの高校に通うようになってから帰るのが遅くなりがちで朝もギリギリまで寝るように。そんなこと誰もが体験したことのように感じるのは僕だけでしょうか。
習慣が変わると、価値観が変わるんです。今まで自分の中にあった概念がぶち壊されます。なぜなら、習慣を変えるための正当性が人には必要だからです。いままで早くに寝ていた人が、残業続きの生活を送るとします。早く寝られていた時は「8時間睡眠じゃなきゃ人は死ぬ」って信じて疑わなかった人が、「3時間睡眠でも人は生きられる」って自分に言いきかせるんです。そんな記事を読んだ、ことを憶えているのも自分の今の生活を否定しないためです。もちろん、逆もしかりです。こうやって人は変わっていくんじゃないでしょうか。
じゃあ自分が変わるためには?関わる人を変えてください。
変えられないなら変わりません。「こんな自分は嫌だ」。それを引き起こしてるのってあの友達じゃないですか?その家族じゃないですか?コミュニティじゃないですか?自分が一番大切に想っているあの人のせいじゃないですか?
大いに人のせいにしてください。自分が変わるために、自分の意識を変えようとしたって無駄なんです。何度ダイエットの決意を固め、勉強すると決意し、明日からやると寝る前唱えましたか?
変わらない、と、変わる
って表裏一体なんです。どちらにも良さがあり、悪さがある。
変わる決断をよりも、行動をしましょう。
自分はいつだって自分本意なんです。
では、また。
正義の「使い方」。
このスパンで投稿して、次は何年後になるんだ?と心配されそうな眠い人です。
今日は争点になりやすい議題を、肌で感じたことを元に、扱っていきたいと思います。
正義の「使い方」
についてです。
つい先日、自分の過失によってお叱りを受けてしまいました。
そしてその原因が、私有地への不法侵入及び駐車、というものです。
この字面を見て、おいおいそれはお前が百パー悪い案件で相手さんの正義がどうせ正しいのだろう、とお考えの皆さん。是非この後も読んでください。
多分皆さんの意見は変わりません。
例えば、正義の定義を、「法律を犯さないこと・遵守すること」に皆さんが置いてると仮定するともちろん、今回の場合それを指摘された自分が悪であると言えるでしょう。今回その認識はそのままでいいのですし、自分が悪であることに反論の余地はありません。
ですが今回の議題は正義の「使い方」であります。「定義」ではありません。
自分が停めていたのは、デリバリー用のバイクで、今回伺ったところが大通りに面していることもあり、その近くの細い道に面した駐車場でした。その駐車場自体には何台か車が停まっているのですが、自分の停めた所には車を停めるための白線が引いてあるものの大きめの木が何本も横たわっていたので、もう使われていないと判断し、勝手に停めてしまったのが事の始まりでした。
自分としては、道自体は細く他の交通の妨げになったらいけないということもあり、よく考えた上で判断したつもりでした。
長くなるので、細かな事の顛末は省きますが、
その方は、
最初からレコーダーをonの状態で手に持ち、度々警察を呼ぶことを示唆し、私の意見を顧みずに謝罪を求めてきたのです。
(もちろん自分の主観によるものですので、第三者から見ればまた違った意見が出てくるかもしれません。)
その後これは、
正義の使い方を間違えた例だな
と考えました。
もし自分が停めている場所が不適切であり、それを自分に指摘するだけなのであれば、レコーダーを用いることや謝罪を強要することは不必要ではないか、と自分は思いました。
そして、その方は「法」という正義のもと、相手を断罪し相手に謝らせたかったのだな、という結論に至りました。
そもそも、 goo国語辞書によれば、「義」とは
であるといいます。
法を守らなかった自分はもちろん正義ではありません。
ただその方の「法は守るべき」という正義は、定義としては正しくも、それを行使する上で、本当に“人として守るべき正しい道”を歩んでのことだったのでしょうか。自分は、いささか疑問が残ります。
皆さんがどう思ったか、是非お聞かせください。
それでは、また。
p.s.事の顛末を知りたい方がいればコメントをお寄せください。自分の主観でよろしければお伝えできる限りお伝えします。
p.p.s. どう思ったかについては、「結局悪いのお前。」「謝れば済む話。事を大きくするな。」などのご意見あると思いますし、もちろんそれも貴重な意見ではありますが、そのような結論にたどり着いた場合は、もう一度冒頭から読むなり自分とは違う世界線で生きていると思っていただければ解決できるかなと思います。お手数おかけ致します。
信号待ちに人生を見た話。
大変久方ぶりです、眠い人です。
もし待ってた人がいてくれたなら幸いです。
本日は、タイトルにもある通り、
信号待ちに人生を見た
そんな出来事のお話です。
自分はデリバリーの仕事をしているのですが、バイクを使うので、よく信号待ちをします。
いつものように信号を待っていたら両サイドをトラックに囲まれて、自分の乗っている道路の信号しか見えない状況になってしまいました。つまり、横断しようとする車や歩行者のための信号が見えなくなってしまったのです。
ただ道路を走るのであればこの状況はごく普通にあることで、なんの問題もありません。ですが、この時自分は携帯で調べものをしたかったのです。
もちろん信号待ちなら携帯をいじっていいという決まりはありませんが、いけないこととはわかりつつどうしても気になってしまったのです。
信号の変わるタイミングを、横断する信号で図りたいと思いつつも、その術がありません。それでも調べたい。でもいつ変わるか分からない。という無駄な葛藤をしているうちに信号は変わってしまい、調べものが出来ぬまま進むしかなくなってしまいました。
これ、みなさんもありませんか??
大した出来事ではないんです。
ただその後道路を走りながら、ふと人生みたいだな、と感じました。
私達の時間はいつも前進し続けていて、様々な出来事が連鎖的に起こります。小学校に入学し、中学、高校、大学、社会人と流れに沿っていても目の回るような状況の変化です。
しかしその中でも、慣れというものが出てきます。
人は状況に慣れると、周りが見えるようになります。(目が暗闇に慣れるのと同じような状況ですね。)
周りが見えると次第にその景色に飽き、自分が停滞しているように感じることも多いと思います。
その時、新たな挑戦をしようと考えるのではないでしょうか。例えば高校に入学し、部活に入ったばかりの頃は練習がキツくて他の事に注力できなくても、2年生になって、バイトを始めたいと言う人や趣味を増やしたいという人が増えるのではないでしょうか。
そこで行動する人と行動しない人その2パターンに分かれ、いつでも得するのは行動した人のように感じます。
いつも行動しない人は、言うだけ言って3年生になり、今度は受験や就職という新たな道を提示され、他のことを始める前にまた、進むしかなくなります。
信号が赤になり、停滞し、携帯を使おうと迷ったものの、青になってしまい進まなければなくなった自分がそれにどうしても重なって見えてしまいました。
物事は、始めると案外慣性がはたらいて、その後スムーズに行くことが多いような気がします。自分の調べものだって、ポケットから携帯を出してしまえばすぐに終わったものです。なのに、いつ来るかわからない青信号に怯え結局何もできずじまいでした。
これから○○があるから、と何かを始めるか迷ってる人。あなたは今赤信号で止まっているんです。今しかないんです。いつか絶対にくる青信号を待っていても、進むしかなくなりハンドルから手が離せなくなっていまいます。そうなる前に、是非始めてみてください。右折や左折はまだ間に合いますよ。
そんなメッセージを伝えたい眠い人でした。
長々と失礼しました。
それでは、また。
意見・意思を持つことと別の意見・意思を持つこと。
ご無沙汰してます。眠い人です。
今日は、意思や意見を持つことと、それとは別の意見や意見を持つことのお話をしたいと思います。
誰しも何らかの事柄に関して意見を持っていると思います。そして、その意見に反対する意見を持つ人が少なからずいると思います。それぞれここに意思が生まれます。ここで、反対意見に乗っかると、「意見を曲げたやつ」「意思の弱いやつ」というレッテルを貼られることがしばしばあります。
それは、「意見を持つ」「意思を貫く」という語感にとらわれて、一つしか持てない、と思ってしまう人が(特に日本人に)多いというところから来ると思います。
そういった人達は意見や意思を各個人が持つ一本の道ととらえているのではないでしょうか。そして個人が意見を変えるときは、外部から来た別の道へと乗り換える、という風に考えている可能性が高いです。だから、自分の道を捨てるという意味で、軽率であるという風に思ってしまいます。特に年を重ねた方達は、自分の意思であるその道に長年の舗装工事を重ね、その道を捨てて他の道に乗り換えることをとても軽率に感じてしまうのではないでしょうか。
そこに固定概念化の真理があると自分は思います。自分の道を正しいと信じたくなるのは人としてとても通常で、築き上げたものを捨てることに抵抗を覚えるのはすごくわかります。だからこそ考え方を変える必要があります。
人の意見を道ととらえるのであれば、「車線」としてとらえれば良いのです。一本の強固な道ではなく、横にいくつも車線があり自分がその一つを走っていると思えば良い。誰かの意見を聞くことで自分の横に新たな車線が出来たことにして、車線変更をしたくなければしなくてもいいのです。ただ、車を運転していても、工事などで車線変更がやむを得ないことはしばしばあります。そうした方が早いという単純な理由で変えることもあります。その度に車線変更しても、いつでも自分が元々走っていた車線に戻ってくることは出来ます。それだけ意見を取り入れて、かつ自分の意見を持つことは単純であるべきだと思うのです。
そもそも一方通行で横に逸れることの出来ない道を誰が使おうと思うのでしょうか。
意見や意思が数えられるものであっても、だからといって一つしか持てないとは限りません。多様性が求められる時代に突入した今、様々な意見を許容し、持ち、駆使できる人がたくさんいれば素晴らしい世界になること間違いないと思うのです。ま、そんな簡単な世界じゃないんですけど。
それでは、また。