眠い人のブログ

思ったこと・感じたこと、体験したことをつらつらと。

意見・意思を持つことと別の意見・意思を持つこと。

ご無沙汰してます。眠い人です。

今日は、意思や意見を持つことと、それとは別の意見や意見を持つことのお話をしたいと思います。

 

誰しも何らかの事柄に関して意見を持っていると思います。そして、その意見に反対する意見を持つ人が少なからずいると思います。それぞれここに意思が生まれます。ここで、反対意見に乗っかると、「意見を曲げたやつ」「意思の弱いやつ」というレッテルを貼られることがしばしばあります。

 

それは、「意見を持つ」「意思を貫く」という語感にとらわれて、一つしか持てない、と思ってしまう人が(特に日本人に)多いというところから来ると思います。

そういった人達は意見や意思を各個人が持つ一本の道ととらえているのではないでしょうか。そして個人が意見を変えるときは、外部から来た別の道へと乗り換える、という風に考えている可能性が高いです。だから、自分の道を捨てるという意味で、軽率であるという風に思ってしまいます。特に年を重ねた方達は、自分の意思であるその道に長年の舗装工事を重ね、その道を捨てて他の道に乗り換えることをとても軽率に感じてしまうのではないでしょうか。

 

そこに固定概念化の真理があると自分は思います。自分の道を正しいと信じたくなるのは人としてとても通常で、築き上げたものを捨てることに抵抗を覚えるのはすごくわかります。だからこそ考え方を変える必要があります。

 

人の意見を道ととらえるのであれば、「車線」としてとらえれば良いのです。一本の強固な道ではなく、横にいくつも車線があり自分がその一つを走っていると思えば良い。誰かの意見を聞くことで自分の横に新たな車線が出来たことにして、車線変更をしたくなければしなくてもいいのです。ただ、車を運転していても、工事などで車線変更がやむを得ないことはしばしばあります。そうした方が早いという単純な理由で変えることもあります。その度に車線変更しても、いつでも自分が元々走っていた車線に戻ってくることは出来ます。それだけ意見を取り入れて、かつ自分の意見を持つことは単純であるべきだと思うのです。

そもそも一方通行で横に逸れることの出来ない道を誰が使おうと思うのでしょうか。

 

意見や意思が数えられるものであっても、だからといって一つしか持てないとは限りません。多様性が求められる時代に突入した今、様々な意見を許容し、持ち、駆使できる人がたくさんいれば素晴らしい世界になること間違いないと思うのです。ま、そんな簡単な世界じゃないんですけど。

 

それでは、また。