眠い人のブログ

思ったこと・感じたこと、体験したことをつらつらと。

「個性」とはなにか。

どうも、人種のるつぼで生まれ育った眠い人です。

人種のるつぼがどこかは調べたらすぐ出てくるんで自分で調べましょう。

 

序盤からぶっとばしましたが、そうなんです。ただの眠い人かと思いきや、実は海外生まれの眠い人なんです。そしてその生まれ育った場所が「人種の坩堝(るつぼ)」だったんですよね。というわけで今回の題材です。

 

日本の国民性と言うものは、協調性を重視して、皆でひとつのことに向かうパワーがとても大きいところにあると思います。それは大変素晴らしいことです。台風や地震津波などの自然災害に多く見舞われながら先進国として成し上がれたのはきっとそういった力が昔から培われていたからでしょう。

 

ですが、「何事も過剰はよくない」もので、日本の「皆一緒に精神」はたまに度が過ぎるように感じます。自分が特に気になった制度はまた日を改めて言いますが、自分はこの「皆一緒」でなければいけない状況が非常に苦手でしたし、今でも苦手です。

 

人にはそれぞれ個性、というものがあります。そうである、と僕は信じています。確かに、環境が個性を形作るので、「皆と一緒が良い」教育を受けてそういう考えを持つ個性に育ったと言ってしまえば、それもそうです。しかし、皆と同じ部分を個性とは呼びません。例えば自分至上主義の外国人10人の中に、そのような考えを持った日本人が1人であればそれは立派な個性ですが、日本にいる間は皆が似たような考えを持っているので個性とは呼べないと思うのです。

 

そして、この個性とも呼べない個性を持った弊害として、他の「個性」を排斥しようとしてしまう・認められない、という状況が多々見られます。

 

環境が個性を形作るとしたら、個性とはその人が今まで生きた「軌跡」です。それを否定するのはその人を否定することに繋がります。どういった了見でその人を否定することが出来るのか、そしてなぜそれがまかり通っているのか。当時日本に来たばかりの僕は、とても怖い、というより悲しい思いをたくさんしました。特に自分は、見た目や血筋は純粋な日本人ですので、外れた考えだけを持った僕が余計に異質に見えたのでしょう。

 

もちろん否定する人たちばかりではないことは知っていますし、否定したくしてるわけではなく、その方法しか知らないだけの人達がいることも今は理解できます。ですが、自分はそうなりたくないと同時に、皆が皆個性を認められる社会になればな、ってふと思ったりします。

 

では、また。